『戦国遺文 今川氏編』が第4巻で完結したのを受けて、いよいよ鳴海原合戦の考察を続けようと思う。
差し当たり、文書を取りまとめてみた。グラフにしたところ、いくつか留意点が出てきた。
01)義元文書で、1552(天文21)年まで順調に伸びていた数値が翌年大きく下落する。その後1556(弘治2)年に復活するが、三河国が増加してその他を引き離している。特に遠江国は発給数は最後まで回復していない。
02)01で弘治2年に回復した義元文書数はすぐに下降を始める。特に1560(永禄3)年は、5月19日に戦死する事情があるものの、僅か2通しか確認できていない。
03)氏真文書は、不慮の継承直後が最も濃密な発給頻度を持つ。永禄3年の5月19日以後は、駿河・遠江・三河に均等に出しているが、松平元康の謀叛が明らかになる永禄4年には極端な三河シフトを敷き、駿河29・遠江19・三河41という文書攻勢をかけている。
04)氏真は尾張への発給がなく、西三河への文書も永禄3年中が殆どとなる。